札幌映画サークルの周回遅れのシネマラソン “映画と本の秘かな愉しみ”(その3)須貝 秀作を公開しています

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会報”シネアスト” 11月号から
周回遅れのシネマラソン “映画と本の秘かな愉しみ”(その3)須貝 秀作
【このコーナーでは、札幌映画サークルの会報“シネアスト”に掲載されている記事をピックアップして紹介しています。】


今月は、好評隔々月連載の“周回遅れのシネマラソン 第3回 須貝秀作”をご紹介します。

* この記事は、札幌映画サークルの会報“シネアスト”2021年11月号(#580)から転載しました。



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”映画と本の秘かな愉しみ“(その3)
映画ファンというものは、贔屓の監督や俳優等に偏愛を寄せるあまり、“あの監督のこんな作品”“あの俳優のこんな役”が見たかった、なんて心持ちに浸ることが少なからずあると思うのでありますが、可能性という魔物が夢想をいたずらに煽るんですなあ、これが。詮無いことと知りつつも募る想いはとど(・・)知らず、てな訳でありまして、今回は本を介して、ほぼ妄想的な“if”を追求してみるのだ!という趣向であります。

まずは今回断トツの一冊目、「幻に終わった傑作映画たち」(竹書房)は見果てぬ夢となり露と消えた映画がギッシリ詰まっておるんですよ。
ちょっと掻い摘んでみますと、チャップリン版“ナポレオン”から始まり、レイ・ハリーハウゼンの“宇宙戦争”、オーソン・ウェルズの“ドン・キホーテ”、フランシス・F・コッポラの“メトロポリス”、そしてなんとリドリー・スコットの『グラディエーター』(2000)の続編!(出演、ラッセル・クロウって、前作で死んでるろうが?!)等々、ページを捲る度に「何!マジかよ。正気ですか〜?」と錯乱必至てきめんの読み物なのであります。しかもですよ、“全作品にオリジナル・ポスター捏造”なんていうオマケ(・・・)付きという念の入れようなんですねえ〜。さて、中でも取分け目を引いたのは、サスペンスの帝王ヒッチコックの「判事に保釈なし」なのでありますが、キャスティングの筆頭に挙げられ内定していたのがオードリー・ヘップバーンとくれば、「ムムム・・・これは実現してほしかった」と唸るのは私だけではないでしょう。当のヒッチコックは女優泣かせの監督でありますから、結果、彼女から未知の側面を引き出し開花させたかもしれませんぞ。
俳優さんの逸話などを探索しておりますと、それぞれにぜひとも演じてみたいというキャラクターがあったと思われるところがありまして、「原節子の真実」(石井妙子・新潮文庫)によりますと、原さんのそれはズバリ“細川ガラシャ”を切望してやまなかったとあります。適役と未だに評価され続けている小津安二郎作品のいわゆる“紀子三部作”に対して、「私は役柄に割り切れないものがあり、この映画の娘の性格は決して好きではありません」と公然とコメントしており、「細川ガラシャ以外に自分からやりたいと願ったものはない。他はすべて(・・・)与えられた仕事にすぎなかった」とまで言い切って自らの女優人生を振り返ったとのことです。
本書は“永遠の処女”と謳われ伝説を背負った女性の実像に迫るようで読み応え十分でありました。

私の年代(S34生)、特に男性なら多感な10代に特撮TVドラマの洗礼を程度の差はあれども受けたのでは?そして円谷英二の名を長く記憶に留めることになったのでは?
“特撮の父”として銘打たれた円谷英二でありますが、飛行に対する強い執着は宮崎駿にも通ずるものがあると私などは思うところがありまして、その精神性は庵野秀明作品『巨神兵東京に現わる』(2012)へと継承されておるんですね。ごく最近でありますが、カメラマン時代の円谷さんが手がけた『かぐや姫』(1935・田中喜次監督)がイギリスで発見され、85年の歳月を経て東京で上映されてちょっと話題になりました。
晩年、かねてから構想、企画していた『ニッポンヒコーキ野郎』はその逝去によって幻となってしまったのでありますが、きっと魂を飛翔させることで夢に殉じたのでは、なんて私、不遜にも思ってしまうんですね。

本稿を書いている現在(9/2)、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『DUNE/デューン 砂の惑星』が10月公開予定であります。小生としましては制作情報をキャッチして以来、念頭から離れなかった稀なるタイトルでありまして、映画館無精が尻に火がついたように待望しております。
フランク・ハーバート原作の「デューン 砂の惑星」映画化の企画は1971年までに遡り、様々な紆余曲折を経てついにデヴィッド・リンチの『デューン/砂の惑星』(1984)として結実したのでありますが、あのカルト映画『エル・トポ』(1970)のアレハンドロ・ホドロフスキー版“DUNE”が1974年に独自の青写真を描き邁進していたのです。
まずキャスティングにオーソン・ウェルズ、アラン・ドロン、グロリア・スワンソン、異端の芸術家サルバドール・ダリときてローリング・ストーンズのミック・ジャガーときたもんだ!美術にはH・R・ギーガーとメビウスを説得し、肝心要の特殊効果をダグラス・トランブルに袖にされてダン・オノバンを起用、音楽にはピンク・フロイドを口説き落としハリウッドへ飛び奔走するが、あまりに壮大な計画と莫大な制作費に恐れをなし敬遠され痛恨の頓挫、断念を余儀なくされたんですね。これ実現していたならば、出来不出来にかかわらず空前絶後、唯我独尊にして前代未聞なるSF映画として『2001年宇宙の旅』(1968)との対極を成すものとして君臨したかもね。
さて『ブレードランナー』(1982)の正統続編という難題を無難にクリアしたドゥニ・ヴィルヌーヴの『DUNE』、期待するなというのは無理じゃぁありませんか。原作も再読!リンチ版も貪り観た、さあ来いと気合十分の小生でありますが、もう一言申し添えると、ドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』(2013)を事前に鑑賞しますと、楽しみもひと際と存じますぞ。
日本映画史上最大の謎とされる、黒澤明『トラ・トラ・トラ!』(1970)監督解任事件でありますが、その真実に迫る究極の書が「黒澤明VSハリウッド」(田草川弘・文春文庫)なのです。つまるところ何故に“VS”となってしまったのかを実証可能な限りに肉迫したような労作でありまして読み応えは保証しますぞ。
ところで幻の黒澤映画がもう一本あるんですが、それがドキュメンタリー映画ともなれば俄然興味津々となります。あの市川崑監督『東京オリンピック』(1965)は当初、黒澤さんに白羽の矢が立ったのですが、伝聞によりますと、やれ「キャメラを何百台用意しろ」「一流キャメラマンを多数集めろ」の号令に制作者側が追随不能の悲鳴をあげ立ち消えになったとのことなんですね。「自分の映画の脚本、編集に関わらないなんて僕には理解できない」が口癖の黒澤さん、助監督時代から寝る間も惜しんで脚本を書き溜めたそうな。私、晩年の佳作『夢』(1990)にその一端を見るように思えるのでありますが、如何でしょうか?

“幻映画”、勝手に佳境へ入ってまいりますが、日本映画界に異彩を放ち続け2005年に亡くなったカルト映画監督、石井輝男は晩年、つげ義春の漫画映像化にこだわりを見せて、オムニバス形式で1993年『ゲンセンカン主人』、1998年『ねじ式』を意欲的に制作しておるのでありますが、小生希望的に妄想するところ、3部作を想定していたのではと思うのでありますが、「チーコ」、「海辺の叙景」、「ほんやら洞のべんさん」も石井監督の感性で創作を見たかったですなあ。

病的な“周回遅れ”の小生でありますが、『異端の鳥』(2019)には生唾飲みましたねえ。純粋無垢なる者が反って異端として荒寥の中を彷徨う姿に茫漠とした心持ちになりましたよ。

次回は「原作VS映画」の仁義(・・・)なき(・・)闘い(・・)ということでやらせていただきます。では、また。
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