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カトリックの総本山、バチカンで前教皇が亡くなり、世界中から 100 人あまりの枢機卿が集められ、コンクラーベ、教皇選挙が行われる。亡くなった教皇は主席枢機卿イギリス出身のローレンスにこの選挙を仕切ってくれるよう依頼してあり、ローレンスはその任を負う。
さて、世界中で 14 億人の信者を持つというカトリックについて、私はよく知らない。戦争が起きると、世界に向け平和を説く世界的重鎮だが、どちらかというと、好感を持てずにいた。昔習ったプロテスタントによる「宗教改革」の顛末が頭にまだ残っていたし、『スポットライト 世紀のスクープ』(2016)では、新聞記者たちが、カトリックの権威を恐れながら、世界中で過去 20 万人を超える子どもたちが、神父から性的虐待を受けていたという事件を取り上げた。大罪は露わにされ、権威は失墜した。信仰はどこへ行ったのか、下衆な言葉でいえば、ロクでもない人間を抱えた団体のように感じていた。
「枢機卿」という役職にある人間が世界中から招集される。枢機卿は 250 人ほどいて、80才以下が対象者だ。枢機卿は教皇の顧問であり、次期教皇の候補者かつ選挙権者らしい。彼らがその位置に選ばれた理由は何だろうか、どういう徳なり、人格が必要なのか、と私は見ながら考えていた。
候補者の主要メンバーはアメリカ出身のリベラル派ベリーニ枢機卿、ナイジェリア出身アデイエミ枢機卿、カナダのトランブレ枢機卿、 イタリア出身で伝統主義を掲げる保守強硬派テデスコ枢機卿の4 人である。そこにカブールにいたメキシコ出身のベニテス大司教が加わる。彼は前教皇から前年に枢機卿に任命され、秘密裡に呼ばれたのだという。
ミステリー仕立てという本作だが、まずアデイエミ枢機卿が失脚する。30 年前にナイジェリアで当時 19 才の女性とつきあい、子どもが生まれていた。その女性はこのたびローマに転勤となっていた。枢機卿たちの宿泊所に夜中誰のものとも知れない口論の声が響き、ローレンスはそれを聞く。教皇選挙が波乱に満ちるだろうことを予測させるシーンである。宗教者でありながらも 14 億人の組織のトップに立つということは、権謀術数に長けていないはずがないように思えた。
さて、トランブレは自分が教皇になった際には、役職につけようと幾人かに約束していたことが明るみに出て、このレースを離れ、テデスコは前教皇がリベラルで改革派であったことが気に入らず、伝統に回帰しようと考える人間だった。同じくリベラルのベリー二は自分が教皇になりたいという野心はなかったが、その点でテデスコは教皇になるのを阻止したい人物だった。
私は以前タロットカードに凝ったことがある。タロットカードの発祥については諸説あり、14世紀のイタリア発という説が強い。大アルカナ という 22 枚のカードと 56 枚の小アルカナがあ り、22 枚は人間の人生で起こることすべてが表されているとされる。カードは絵で表され、その一枚一枚をイメージを膨らませ、言葉にして行くのが楽しさ、面白さである。最初は漢字や英単語を覚えるのと同じ苦労があるが、さて、この 22 枚の中に「教皇」、「女教皇」(存在した
はずがない、が定説)、「吊られた男」と 3 枚ものカトリックのカードが入っている。西洋社会はキリスト教の影響を考えずには理解できないといわれる所以の一例のように思う。「教皇」は「慈悲、優しさ、法の順守、尊敬、寛大」etc.の概念を表す。少なくとも 14 世紀の昔から、教皇はそういう存在だと文字を持たない人々にも信じられて来たわけである。慈悲、優しさは末端の神父まですべてが持っていたに違いない。法の順守、尊敬、寛大、はわからない。
さて、この選挙、誰が仕組んだのか。前教皇はチェス好きで 8 手先を読むといわれていた。そう、これができるのは彼しかいないのだと、わりと始まってすぐに思った。
(ここからネタバレ)
結局、ベニテスが教皇に選ばれるが、彼は身体の中に子宮を持っていた。前教皇は手術をして、取ってしまうよう勧めていた。それなら、教皇になるのに何の問題もないと。しかしベニテスは「神がお作りになった身体に不都合があるわけはありません」といい、ローレンスはその言葉に感動する。教皇選挙で一番大事なのは、神への信頼、信仰なのだと彼にあらためて気付かせた。ローレンスはこの選挙が終わったら、教会を離れようと信仰を失いかけていたようだ。最後は前教皇が飼っていたカメが庭に這い出すのを見つけ、建物に戻すシーンで終わる。彼がベニテスによって全き信仰を取り戻し、教会に戻るのを暗示しているように思った。
さて、ローマ教皇の役割とは何だろうか。 一宗教団体の代替わりになぜ世界中の注目が集まるのか。奇しくもこの映画の公開中に266 代教皇フランシスコが亡くなったが、彼は常に弱者を思いやる視点に立ち、多様性や寛容性を説く姿勢で知られる改革派のリーダーだった。2019 年に来日し東京で行われた「青年との集い」では、いじめなどの経験を語った若者 3 人に対し、「多くの人が、ゾンビ化している」と語り、とりわけ教皇が警鐘を鳴らしたのは、世界中で社会問題化している孤独、つまり、現代人の「心の貧困」だった。
日本は「国は貧しい人々の面倒を見るべき」と考える人、ボランティアや寄付をする人の比率が、他国に比べて極端に低いらしい。個人主義の傾向が強まる中、人とのつながり、人への思いやりの価値が忘れられているのではないか。何に対しても「自己責任」といった論調が強くなり、結果的に、引きこもりや高齢者の孤立、社会的に孤立する者たちによる犯罪、自殺、孤独死など、「孤独」が引き起こす多くの社会課題の解決に手が付けられていない。
今回この作品を見て、ゾンビといわれたことを思い出したが、良質な人間の存在、世界に向け、語るべき言葉を持つ公平な存在が必要なことを思った。それはしかし一神教なき日本では難しく、どういう形でならより良い方向に進められるのか、彼我の違いを思った。
飯田澄子