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『さよならはスローボールで』
坂尻昌平の映画講座カーソン・ランド監督 『さよならはスローボールで』 は みんなの映画である
『さよならはスローボールで』を観なければなるまい。そう思わせるだけのことはある映画なのだ。一体、何を言っているのだと思われるかも知れないのだが、実際、そうとしか言えない映画があるのだ。どういう映画なのか? 要するに年のころ 50 代から 60 代くらいのオヤジさんたちが、草野球をするだけの映画なのだ。しかし、その草野球をする野球場「ソルジャーズ・フィールド」は中学校が建設されることが決まっていて、今日が使用期限であり、もうオヤジさんたちには、野球場が使えないということは、人生のささやかな楽しみであったし、みんなで集まって下手な野球でもするかというノリで、親交を深めていった仲間たちと会って騒ぐことができなくなってしまうことを意味する。これが悲劇といって何が悲劇だというのかという悲愴な思いに襲われて一瞬、憂鬱な気分になってしまいそうになるのだが、これがみんないたって元気であり、朗らかに最後の草野球試合を存分に楽しむのだ。
この映画には、主人公というものがいない。
みんながそれぞれの場所でそれぞれのやるべきことをするだけだ。最初、「アドラーズ・ペイン」というチームには 8 人しかいない。対戦相手は、「リヴァー・ドッグス」で、先攻の「アドラーズ・ペイン」は、9 人目の人物を一番最後の打者とすることで、たぶん、きっと間に合ってくれるはずだという見込みで試合に臨むのだ。
打者が間に合わなかったら、その時点で試合終了という約束なのだが、みんな呑気なノリでバッティングする。果たして 9 人目のメンバーはギリギリのところでやって来るのだが、そのことについて他の人から特に問い詰められることもない。とにかく、そういう至っていい加減なノリで始まっているのだ。
選手たちも、特に剛速球ピッチャーがいるとか、ホームラン・バッターがいるとか、守備の上手い選手がいるとか、そういうことは一切ない。ただオヤジさんたちの草野球がのんべんだら りと続いていくだけだ。
『さよならはスローボールで』の原題は、
「EEPHUS イーファス」だが、この言葉は、パンフレットによれば、「山なりの高い軌道を描く、急速 80 q/h に満たない超スローボールのこと。(中略)イーファスの語源はヘブライ語で『何もない』だと言われている。原題である
『Eephus』のスペルも、ただアルファベットを並べただけの造語であり意味はない。」とある。まさに「イーファス」に相応しいスローボールを投げるピッチャーも登場する。ゆっくりと山なりに放られる球だといって、ホームランになるわけでもなく、それなりに打ち返すだけだ。すべてのプレーが日常性の中で推移し、特に秀でたプレーは存在しない。そんな風にプレーは進行し、派手な応援団もいないまま、時間はどんどん過ぎて行く。
やがてみんなが恐れていた事態が出来する。徐々に闇が支配し始めるのだ。しかし、試合を止めるわけにはいかない。
誰もが試合を止める気はない。ボールも見えなくなっているこの球場で続けるのは極めて危険だ。ライトは電気を止められていて使えない。暗くなったグラウンドで、誰もが一体、何をやっているのだと疑問を呈する。そこで、一人がアイデアを閃く。みんな自動車で来ているのだから、自動車のヘッドライトをグランドへ向ければよいではないかと提案し、ただちにそれは実行され、簡易的なナイターが実現する。と言っても、ピッチャーのマウンドとホームベースを中心に光を当てているだけで、全面的な明るさには欠けている。それに審判をしていた人が途中で家に帰ってしまう。急遽、グラウンドの外で、試合を見物していたオジイサンが、審判に任命されてしまう。バックネット裏の二階の放送席から座って審判をするに至る。なんとデタラメで大らかなのだろう。
とにもかくにも、試合は終わりが来るまでは続くのだ。わたしらには、今日という日しかないのだから、是が非でも試合を終わらせなければいけない。ただそれだけの目的のために簡易ナイターは続くのだ。秋の空気は冷たい。みんな寒そうだ。でも試合は終えなければいけない。
こんな野球映画は、かつてあっただろうか?ボールがはっきりとは見えないくらいの暗さにもかかわらず、試合を強行するなどということは、さすがに草野球でもめったにあることではあるまい。それにもかかわらず、試合は終わりまで続く。
素晴らしい映画だと思わざるをえない。この映画は、草野球するオヤジさんたちを描き、野球することの本質に深く迫っている。とことんボールが見えなくなっても、試合を終えるまでは、続けるのだというこの執念。勝つことへの執念でさえなく、試合を終えるまでは、続けることへの執念がこの映画を支えている。
監督は、本作が長編映画第一作のカーソン・ランドである。インディーズの「オムネス・フィルムズ」の創設メンバーで撮影監督や脚本などを担当しているようだが、この映画を撮り上げた力業は、端倪すべからざるものである。

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