札幌映画サークルの「Sumiko said・・・    飯田澄子」を公開しています

札幌映画サークルのトップ >> 〇『ボブという名の猫』評
〇『ボブという名の猫』評
「Sumiko said・・・    飯田澄子」
©2016 STREET CAT FILM DISTRIBUTION LIMITED ALL RIGHTS RESERVED.


2016年度作品の『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』を見た。イギリスの作品である。
ホームレスのジャンキーだった主人公がボブと名付けた猫との出会いによって、幸せな人生を取り戻すという話である。
イギリスには社会派の重鎮、ケン・ローチ監督がいる。イギリスだけに留まらないが、ここ数年の働き方改革?(変化)に伴い、社会自体が変化、結果、そこでどのように家族や個人が苦しんでいるかをケン・ローチは『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)、『家族を想うとき』(2019)で描いて見せた。前々回書いた『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』(2012)、この作品もコメディのようだが、ストーリーとしては困窮した高齢者たちの話である。日本では子どもの7人に一人が貧困状態にあるというデータは広く知られるようになったと思うが、私はここ数年、若者も高い割合で貧困状態にある状況に強い関心を持ってきた。一方の『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』の高齢者の貧困のエピソードにはさほどの悲惨を感じなかった。笑って語られるそれにはどこか余裕があった。一方、子どもの窮状、子どものいるシングルマザーの窮状、見えはしないがデータに明らかな若者の窮状には、どういう描かれ方がされようと、胸がつまるような思いを抱く。

私も高齢者枠のはしっこにいるが、子どもたちや若者の貧困の何が違うといって、子どもや若者にはこれからの長い将来に希望がないということだろう。私の世代が持っていた、今給料が安くともここでしばらく我慢すれば、かならず今の状態から抜け出せるという希望が彼らにはないのである。ホープレス、希望なし、死ぬ日までこのままだろう、と思っている人々が国民の何割かに及んでいるのだ。

それを前提として、この映画を見た。『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』を作ったロジャー・スポティスウッド監督の作品だが、題が示すように、この作品の主人公は猫とも取れないことはない。「吾輩は猫である」の猫のような自意識高い猫が語る自分の人生の物語。
そう思えて来るほど、この猫の主役級演技は素晴らしい。特別に演技を勉強させられたスペシャルな猫なのか、または私が知らないだけで映像上の特殊技術で、人間の首に襟まきのように乗ってずっと離れないなどの芸当をする猫として見せることが可能になっているのか?この猫には猫の一番の特徴、「気まぐれな動き」がみじんもない。ストリートミュージシャンである主人公ジェームズが人前で歌うときは彼にピタリとくっついて、しかも邪魔を一切しない行儀をわきまえた猫なのである。
原作は上・下巻で1000万部が売れたという。広告で知って、この猫を見るために映画館に出かけたという人もあるのかも知れないと思った。悲惨は見たくないが、かわいくて心和むものを好む人は多い。これは猫が主人公の動物映画であって、ジェームズは準主役、ボブを魅力的に描くために雇われた人間・・・(ということはないかな)。でもDaiGoといったか、多額納税者らしい、ホームレスのような汚い人間たちに自分の税金を使われるより、僕は猫好きなので猫にお金を使いたいんです・・・といった「メンタリスト」という職業の若者も登場したのであるし。

ジェームズは11歳のときに両親が離婚、以来、実父ともうまく行かず、麻薬に手を出すようになった。道路端でギターを弾き、歌を歌ってわずかなお金を手にして暮らしている。金が手に入ると、食べ物を買うのではなく、苦しさを忘れさせる麻薬を買い、道端で寝るという生活。身体に良いわけはなく、痩せて今にも倒れそうに見える。ケースワーカーのヴァルは、彼はもう耐えられないだろう、今を逃すと死ぬかも知れない、これが最後のチャンスと上司に訴え、彼に困窮者用の家を紹介する。

そこに野良猫としてボブはやってきて、シャルル・ペローの「長靴をはいた猫」のようにジェームズに次々と幸運をもたらしていくのである。ボブは賢い頭でジェームズを観察し続けたのだろうか。「長靴をはいた猫」のように、自分がこう動けば、僕の主人は今の経済的苦境を脱して、やがては有名になって主人付属のボクも有名になるだろう・・・と、そんなふうに計算する猫がいるはずもないが、ボブはまるで猫のぬいぐるみを被った何かのようなのだ。
ジェームズの友達、同じく麻薬中毒のバズは身体が弱ってついに死ぬ。道路端で死に至る彼に誰も近づかないが、ジェームズが見つけて救急車を呼ぶ。死んでから救急車が来ても仕方がないと思うが、生きている間の彼は助けられることはなかった。バズに親きょうだいがいたのかどうか。助けを求めてもどうにもならない家族だった可能性はある。『家族を想うとき』の息子の一年後の姿と想像できないこともない。
一方、ジェームズには立派な家に住む父親がいた。ジェームズはクリスマスに実家を訪れ、「ジャンキーめ!出て行って」と父の妻にいわれる。しばらくのち、ヴァルの力添えで麻薬を断ったジェームズは再び父を訪ね、「僕はもうジャンキーじゃない」という。父は財布から彼の子どものときの写真を出し、「おまえを忘れたことなどなかった、だけどどうしていいかわからなかった」という。本音に違いないが、こんな親ばっかりではね!と私は思った。親としての振舞い方がわからないという未成熟な人間。ホームレスの息子をずっと心配していたのは事実かも知れない。だが、この彼の心配の総量と、若い、経験も先の希望もない少年青年たちの苦闘の総量を比べてみたら、どっちが重いか明らかでしょうが!!と思うのだ。

この頃、自分がひどく老化したという気がしている。子ども食堂運動を始めた5年前は子どもの虐待の記事を読むことができた。今はつら過ぎて読めない。「社会の見たいものだけを見る」という老人になっていくのを強く感じる。

この作品はかわいい猫が先に目に入ってくるか、悲惨な孤立無援の若者が目に入ってくるか、見方を分ける作品だろう。もちろんケン・ローチ作品ではないが、売り込み方とは別に、社会派の作品の一つである。

札幌映画サークルのトップに戻る