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〇『英雄の証明』評
 絡まり  『英雄の証明』を観て      笹森 美帆
 ©2021Memento Production Asghar Farhadi Production ARTE France Cinema
 イランのアスガー・ファルハディ監督の映画を観るのは6本目だが、彼の作品を見た後、陥る心境にはいつも共通するものがある。
映画の中で描かれる中東イスラム社会の文化や習慣は、私たちのそれとは異なる部分が多く、すんなり理解できるものばかりではない。しかしそれでも、登場人物の心の中に巣くう邪心、善意、憤りや、幸せを願う気持ちは、人間として共通のものである。日常の中に隠された思いがけない落とし穴、小さな綻びに足をとられ、それがきっかけとなって、次々と周りの人を巻き込んで状況が複雑化し、物語は日の当たる部分と、影の部分を巻き込みながら二転三転、どこまでも転がり続ける。
映画が終わった後、手の中に残るのは、絡まった人々の感情の糸束で、いったいどこからそれを解いていけばよいのか、私はいつも途方にくれるのである。

ラヒムは借金を返せなかった罪で投獄されたバツイチの男で、姉夫婦の家に十歳前後と思われる吃音のある息子を預けている。
物語は彼が休暇で出所した日に始まる。ラヒムの恋人が偶然拾い、隠し持っていた17枚
の金貨を彼に渡し、これで借金を払えばすぐに出所できるではないかと、ふたりは束の間胸を躍らせる。この時、彼らにとって17枚の金貨は、神からの温情であったのだ。しかし、ささいなことがきっかけとなり、その考えは変わってしまう。「ひょっとして、神は自分を試しているのではないか…」というラヒムの思い。これは『善行』について、深く考えさせる物語だ。

数年前、映画サークルのある上映会が終わった後、搬出作業を手伝っていて、機材を積むワゴン車のすぐ近くで一万円札を拾ったことがあった。
17枚の金貨とは比べようもないが、小銭でもない。その一万円は財布に入っていたわけではなく、ただ一枚、ひらりと地面に落ちていた。ワゴン車を止めてあった小さな駐車場には人影もない。それで私は、会場と駐車場を往復して搬出作業を手伝っていた人たちに、かたっぱしから聞いて回った。「駐車場で、一万円、落としませんでしたか?」その時の人々の反応は様々だった。「一万円札なんて、そもそも僕の財布には入ってないですから、ありえないです」と笑う人。「え?」と一応財布の中身を確認して「いや、私のじゃないです」と答える人。そういう微塵の狡さもない、ひとりひとりの反応を見ていて、当たり前といっては当たり前なのだが、「みんな正直に生きているんだなぁ」と嬉しくなってしまった。些細なことだが、それは爽やかな感動だった。結局その一万円は近くの交番に届けられることになるのだが、ラヒムが手にした金貨は警察には届けられなかった。
ラヒムは自分自身で落とし主を探そうとしたのである。そこにまず、第一の落とし穴があったように思う。服役中の彼にとって17枚の金貨は喉から手が出るほど欲しい金なのだ。他人から盗むという能動的な行為があったわけではないけれど、自分のものではない金を黙って自分のものにしてしまうのは着服である。着服は横領であり、罪に問われることだ。
あの一万円の件を思うと、「自分のものではない」と答えた人は皆、善行をするというより、当然のことを当然のごとく行っているにすぎないという風情があった。一万円ごときで比較するのは難しいが、仮に、明日食べる米もないという人が「落としませんでしたか?」と訊かれたら、多少なりとも心は揺れるのではないか。してみると、この金貨さえあれば出所できるのだという彼にとってみれば、心が揺れないわけはないだろう。しかし問題は、ラヒムが金貨を持ち主に返したということで、あたかも英雄のように称賛されてしまったことだ。

元をただせば当然のことを行っただけなのだが、難しい立場にある者が正しい行いを選び、神の掟を守ったということで、彼の生きる世界では大変な賞賛を浴びたのだった。そしてそれによって、ラヒムは思いがけない恩恵を得ることになる。
しかし、物語はそこでハッピーエンドで終わるどころか、ラヒムの小さな嘘が綻びとなり、本来の善行が歪められ、彼の行いに疑惑を持つ者、貶めようとする者たちによって、とんでもない方向に話が進んでいく。
喧々諤々、あっちからも、こっちからも、それぞれの思いがまくしたてられ、物語はカオスの形相を帯びてくる。例えば、そもそもラヒムを借金返済不履行で訴えた元妻の兄が、「自分はいつも正直に生きてきた、神の前に恥じることは何もない。借金の肩代わりをするために酷く苦しい思いを強いられたが、正しく生きたからといって、ラヒムのように英雄として褒め讃えられたことなど一度もない」という。それはもうごもっともとしか言いようがない。

この映画のタイトルは『英雄の証明』だが、英雄という言葉はラヒムには不釣り合いな気がする。そもそも英雄ってなんなのだろう。
日向があれば、日陰が出来るのは当然のことで、一人の人間を、英雄か偽善者か、白か黒かで、きっぱり塗り分けることなどできるだろうか。
現在では誰でもSNSで自由な発信が可能になった。それによって私たちは多大なる恩恵を受けているが、同時にそこには大きな危険も潜んでいる。言葉や映像による発信があっという間に拡散され、世間に極論を生み出すこともあるからだ。人間は情報に煽られて感情的になりやすいものだし、冷静な声はかき消されがちだ。この映画の中でも、まさしくSNSのそういった面が取り沙汰されており、ある人物のSNSの発信によって、ラヒムの運命もたちまち危機に晒されることになる。
ひとりの人間を、赤と緑、黄色と紫のように、補色の糸を取り混ぜて描くファルハディ監督。こっちの糸を引けばあっちが泣き、あっちを引けばこっちが泣きをみるという、複雑な人々の絡み合い。様々な人々の生きるこの世は、とうてい一枚岩ではない。だとしたら、一方向からだけ見て物事を判断するのは危険なことだ。たやすく情報を鵜呑みにせず、今、目に見えていない部分にも光を当てようという姿勢、そして感情に流されないこと。何が善で、何がそうではないのか、第三者として真実をあやまりなく見抜く冷静な分析力が、私たち、ひとりひとりに求められているのではないか。

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