札幌映画サークルの分かってほしいと思うときを公開しています



16 世紀、物語はイングランドの片田舎の杜から始まる。木の根の洞で眠るアグネスを写した最初のシーンに息をのむ。まるでラファエル前派のロセッティ、あるいはハントの絵のように美しい。化粧も施さず、無造作な髪型と粗末な衣装のアグネスは眠りから目覚め、その絵の中から抜け出し動き出す。
このアグネスに心を奪われたのが貧しいラテン語教師、若き日のウィリアム・シェイクスピアだった。手袋職人である父の家で居場所を見つけられず悶々と暮らしていた彼は、自由奔放なアグネスと出会い熱烈な恋に落ち、ふたりは結ばれる。
この作品のタイトル『ハムネット』とは、ふたりがもうけた 3 人の子供のひとりの名であるのだが、そのハムネットを喪失するという夫婦の苦悩がシェイクスピアの代表作「ハムレット」の礎となる。
この作品の監督であるクロエ・ジャオの『ノマドランド』(2020)がとても好きだったので、今回のこの作品を観るのを楽しみにしていた。すべての映像が見事であったし、ことにシェイクスピアの妻アグネスを演じたジェシー・バックリーの力のこもる演技が心に残った。しかし今日は、この作品の詳細を語るより、息子を失った妻と夫の悲しみの変容を観ていて考えさせ られたことを書いてみたいと思う。何故なら、このような特殊な場合に限らず、私たちの日常の中にも「理解、期待、依存、失望、自己統一、自立」と、共通するコンセプトがあるからだ。
若い夫婦は三人の子供とともに貧しい田舎生活を送っていたが、妻アグネスは無名の劇作家である夫ウィリアムの才能を信じて彼をロンドンに送り出し、自分は子供たちとともに、森の近くの小さな家に残る。
アグネスはウィリアムにとってただ一人の理解者であった。しかしハムネットの死後、彼女は悲しみのあまり、人が変わったように厭世的な自己の世界に閉じこもり、息子の危篤を知って駆けつけた最愛の夫さえをも疎み、拒絶し、怒りと恨みさえ感じるようになってしまう。
受け止めきれない大きな喪失感に襲われたとき、人はどこにも持って行きようのない悲しみに溺れ、埋没し、「何故、私にこのような理不尽な苦しみが与えられたのか」と、自分の感情にしか目がいかなくなりがちだ。悲嘆にくれる自分の気持ちを他者に分かって欲しい、その悲しみに寄り添い、苦しみの淵に落ちてしまった自分を救い出して欲しいと藁をもつかむ思いで願う。
何事においても、人は他者に「分かってほしい」と願うものだ。それが人間の本能と言ってもよい。生まれたばかりの赤子は、自分が何を欲しているかを伝えるために泣く、そして親はその泣き声によって何を求めているのか知ろうとする。人間はすべからく他者に期待し、分かって欲しいと願うものなのだ。そしてしばしば理解してもらえないと感じると、絶望し、孤独に陥り、怒りさえ感じてしまう。しかし仮に、どのように慰撫されようと、本質的な悲しみは消しようがない。なぜなら、自分が他者に「分かってくれ」と望んでいることは、本来自分でしか解決しえない問題だからだ。「分かってくれない」と相手に怒りをぶつけ、孤独を感じる時、実のところ、人は自分自身の未解決な欲求を相手に映し出して八つ当たりしている状態とはいえまいか。他者に分かってもらおうとするのは、自分を肯定してもらうことで安らぎを得ようとする『依存』ともいえるかもしれない。
承認欲求というのは多かれすくなかれ、誰にもあると思う。誰しもが他人に理解されたいと願う。それは人間として当然の欲求だが、悲しみや喜びを自分ひとりで受け止められるひと、自分の価値を自分自身できちんと踏まえている人は、あえて他人の賞賛や共感を求めて一喜一憂しない。
さて一方、ウィリアムはハムネットが亡くなった後、妻と残りの二人の子供を田舎に置いてまたロンドンへと旅立った。たとえ我が子を失っても、彼には果たさなければならない作家としての仕事があった。仕事(社会)は彼が悲しみの殻の中に閉じこもることを許さないのだ。妻に突き放されたウィリアムには、悲しみを吐露できる対象が存在しない。
妻が遺児の母であれば、彼とて父という立場なのだ。その苦しみにいかほどの違いがあろうか。しかし、頼れる存在、分かってくれる人など誰もいない。彼はたったひとりでその悲しみに直面し、耐え、自力で立ち上がるしかないのだった。孤独の底で噛みしめる苦しみ、受け入れがたいそれを受諾し、それでも自分として生きることで、精神的に自立した状態に近づいてゆく。自分をどん底にまで追い詰めて、その苦しみと対峙することによって産み落とされたのが「ハムレット」だった。
舞台稽古の場で主人公ハムレットにセリフを口頭で教えていくウィリアム(ポール・メルカス)の姿には、血を吐くような悲しみと絶望がありありと感じられ、胸をえぐり取られるような痛みを感じた。
そして新作「ハムレット」の初演の日、うつろな目をしたアグネスも観客の一人としてその場に現れる。あろうことか舞台の上で、殺されたハムレットの父の亡霊を演じているのは、ウィリアムだった。切々と語られる亡き王の無念と悲しみ。死んでも死にきれない苦しみに打ちひしがれる亡霊としてウィリアムがそこに立っていた。彼は耐えがたい悲しみを芸術に昇華させ「ハムレット」を書き上げ、彼を本来あるべき、そして唯一ありえる方法で彼自身を救い、そして彼だけではなく、妻アグネスを、そしてその芸術に触れたすべての人々をも救う。
そのラストへの一連の繋がりが、この作品の最も心打つところだろう。126 分の映画のほぼ半ばからこぼれ始めた切ない涙は、後半になって滂沱の涙に変わる。しかしその涙は頬に温かいのだ。そしてそれまで心の中に広がっていた殺伐とした灰色の荒野には、うっすらと光が差してくるのだった。